私にとっての人生の節目はいくつもあります。
小中高、大学の入学・卒業、就職、そして結婚。
こんな人生の節目は誰にでもあるものでしょうが、自分の生きてきた歴史を振り返ってみると、「自分なりに頑張って来たなぁ」と思うより、「周りの人達に助けてもらった」という思いの方が強いかもしれません。
特に妻には”ありがとう”の一言に尽きます
気付くと25年の思い出が蘇る
私と妻が知り合ったのは、就職して状況してからのこと。
大学時代の友人を通じて、知り合った女性でした。
当時、看護師として働いていた妻やその友人達と含めて、数人でのグループ交際。
一緒に行動している中で、いつの間にか気持ちを寄せ合い、お付き合いすることになりました。
しかし、私が転勤で東京から東北に移り住むことになり、その頃はまだ”結婚”という思いまではなかったのです。
しかし、遠距離交際の中で喧嘩をしたり、離れたりしそうになったこともありましたが、実際に会えるのは、数か月の1度程度。
そんなこともあって、彼女との結婚を強く臨むようになり、何とかゴールインしたのです。
しかし、新婚生活は必ずしも甘く明るいものではありませんでした。
それは私も妻も慣れない土地での生活だったからです。
元々、私は九州出身。
妻も山梨の出身で育ちは長野県。
お互い、東京の都会的な生活に慣れ親しんでいたのですが、それまで行ったことのない東北の地で、頼る親戚もなく、友人・知人もいませんでした。
しかも、あの頃は私の仕事がすごく忙しくて、青森~福島まで広大な東北地方を巡回するような営業をしていたこともあり、自宅に帰るのが週に1、2度でした。
そんなことから、妻1人自宅に残して寂しい思いをさせていたのです。
それでも、一言も愚痴を言わず、私を支えてくれた妻です。
結婚5年目の出来事
妻は看護師ということもあって、東北でもすぐに近くの個人病院で働くようになっていました。
そのおかげで、少しずつ友人も増えて東北の土地にも慣れて楽しく生活できるようになっていったのです。
しかし、長女の出産と同時に仕事はしばらく求職。
その翌年には長男も授かり、一機に賑やかなになっていきます。
でも、結婚して5年目の年に大きな出来事がありました。
それは3人目の子供の出産の時です。
予定よりひと月も早く生れてきたのですが、未熟児での出産。
この時は妻も二男も命を落としそうになっていました。
まだ、幼い上2人の子供を残して、私もすごく精神的に参っていた時です。
それでも、義母や親戚に助けられて、何とか妻も二男も無事に退院することができたのですが、結婚して初めての難関だったと思います。
そのこともあり、5年目の記念的な思い出を作ることもなく、時が過ぎていくことになってしまいました。
バタバタしていた結婚10年目
東北に移り住んで約8年。
それから、2度目の転勤。
この時は九州への移動ということもあり、私自身も10数年ぶりの帰還という感じでした。
しかし、九州時代に迎えた結婚10年目の節目も、妻に何の感謝の気持ちを表すことができなったのです。
当時はちょうど”スイート10ダイヤモンド”が流行っていた頃で、私の”へそくり”でささやかに指輪を贈ったくらい。
でも、当時は東北時代の頃と比べようがないくらいに、仕事が忙しく、まさに”バタバタ”としていたことしか記憶にありません。
しかも、妻も子育てのピークでもあり、看護師として働くこともできなかった時でもありました。
また、ご近所の人達とのお付き合いも、スムーズでなかったために、妻は精神的に病んでいたのです。
私が仕事を終えて自宅に戻るのは、いつも午前様。
そして、翌朝には6時までには家を出て、営業車で九州各地を走り回っていたものです。
まあ、東北勤務時代と比べると、日帰りでの仕事がほとんどだったので、家を留守にすることはあまりありません。
それでも、妻とゆっくり話ができるのは、休日だけ。
本当なら、妻の悩み事や愚痴を十分に聞いてあげなければならなかったのですが、そんなこともできずに、妻はかなり私に不信感をもっていたのではないかと思います。
それでも助かったのは、娘の小学校のクラスメートを通じて、”ママ友”ができたこと。
そのおかげで、今で言う”ママ友”との行事で、何とか気を紛らわすことができたのかもしれません。
今から九州勤務時代のことを振り返ると、やはり妻に何もしてあげられなかったと反省するばかりです。
20年目~銀婚式までの苦労
九州での勤務はそんなに長くはなく、約5年くらいでした。
それから間もなく東京本社への転勤辞令が出て、再び首都圏での生活が始まりました。
東京は私も妻も社会人としての出発した所でもあり、東北や九州よりも生活しやすい環境のはずでした。
結婚して10年が過ぎ、子供も小学校での転校だったので、そんなに不安になることがなったと思っていました。
しかし、そんな考えがいかに甘かったかということをつくづく思い知らされることになります。
仕事においては、全国を飛び回る仕事だったために、月曜日に会社に行き、自宅に戻れるのは、金曜日の夜。
まさに土日しか自宅にいない生活がずっと続くことになります。
それでも、妻は私の仕事スタイルで何年も一緒に生活して、もう慣れてくれていましたし、子育てもある程度落ち着いていたために、数年ぶりに看護師として復職。
そのことから、結婚して10年目以降の生活は、かなり落ち着くはずでした。
しかし、その思いはもろくも崩れ去ります。
と言うのは、子供の進学熱・教育熱が異常なまでに熱かったからです。
地方で育ってきた私達の子供にとって、東京の進学には全く付いて行けないくらいの状況です。
小学校でもすでに”お受験モード”が蔓延していて、当時、小学校高学年だった長女は、ほとんどの同級生が塾通い。
そのために平日にゆっくりと遊んでくれる友人がいません。
それは長男でも同じことで、仲のいい友達ができるまで、しばらく時間がかかったのです。
というより、一時、いじめに遇ってから登校拒否になった時期もありました。
このような時期が子供達が高校に進むまで続いたこともあって、この時は仕事を休み、私も妻も何度も学校に層段に行くことや公的な相談所に駆け込むこともしばしばでした。
結婚して10年目以降はそんな毎日が続いた記憶ばかりです。
それでも、3人とも公立高校を出て、娘は専門学校へ、息子達も曲がりなりにも、大学に進み、すでに娘と長男は社会人になっています。
それも、母親の背中を見て育ったおかげか、今は看護師として活躍中です。
二男も今年は就活するまでの年齢になっています。
そんな子供達を見ていることで、妻との結婚生活の歴史を振り返ることができるわけです。
でも、2人でゆっくりと旅行に行ったり、遊びに連れて行ってやれなかったことに、”ごめんなさい”です。
しかし、ふと娘が言うのです。
「ねえ、お父さん、お母さんと結婚して25年じゃないの?」
そう、娘の言葉で25年目になっていたことを思い出したです。
妻も25年目の節目の年であることを、すっかり忘れていました。
そう、10年目の記念日までは覚えていましたが、慌ただしい毎日の中で、銀婚式の年になっていたなんて、完全に忘れていたのです。
「親父、せっかくだから、おふくろと銀婚式の記念写真撮ったら?そうだ俺達も入っていいか?」
子供達のおかげで、銀婚式の記念写真を撮ることができました。
銀婚式を振り返って妻と子供に感謝
銀婚式の写真は、子供達の節目の写真を撮影してもらっていた近所の写真館で撮ってもらいました。
妻と2人での記念写真。
子供を囲み、家族5人での家族写真。
出来上がった写真を見て、妻がにこやかにほほんでいる顔を見て、これまでのことに感謝の気持ちがこみ上げてきたのです。
「ここまで子供達を育ててくれて、ありがとう」
「大したことができない私を支えてくれてありがとう」
この2つの言葉でしか表現できません。
ただ、銀婚式の記念写真のきっかけを作ってくれた子供達にも「ありがとう」なのです。
金婚式を目指しての願い
銀婚式の写真は、我が家の写真棚に飾っています・
これから、子供達が我が家から巣立っていき、2人の生活も始まりますが、次の金婚式の記念写真が撮れる頃には、孫にも囲まれて賑やかな記念写真になることが願いです。
金・銀婚式祝い|結婚記念日写真は福岡市フォトスタジオ
原田写真館(香椎参道通り)Since1969
結婚記念日ホームページ https://wedding-haradaphoto.com/
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